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岩田靖夫著、
 『ヨーロッパ思想入門』

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書名:ヨーロッパ思想入門

著者:岩田靖夫

出版社:岩波書店

出版年:2003


 

◆ リベラル・アーツ教育をめぐる現代の論争

 現代世界のことを理解するためには、よくも悪くも、ヨーロッパ文明のことを理解しておかなければなりません。よくも悪くもというのは、ヨーロッパ近代がたしかに文明化の恩恵を世界にもたらしたと同時に、人類史上まれにみる帝国主義的植民地支配をおこなったからでもあります。この点はけっして看過されてはならないでしょう。ただ、1970・80年代以降アカデミズムで定着してきた〈西洋中心主義批判〉の方向性は正しいとしても、そのことがただちに、ヨーロッパ世界のことを学ぶ意義じたいの低下を意味するわけではありません。ポストモダン系の議論では、この点が十分に考えられない傾向にあります。
 文化研究(カルチュラル・スタディーズ)やポストコロニアル研究などでは、ラディカルな多文化主義の観点から、西洋的なものの隠された特権性を批判し、アジアやアフリカ、南北アメリカの多様な土着的文化を等しく学べるようにすべきであるとする議論が顕著です。これに関連して有名なのは、アメリカ合衆国で80年代末に生じたカノン論争です。多様なエスニシティの集うアメリカ社会では、ヨーロッパ中心・白人中心の歴史観を一概に学生に学ばせるべきではなく、それぞれの文化的帰属を尊重しマイノリティも自文化を同じように誇ることのできるような教育を実現すべきである――。公民権運動からカウンター・カルチャー運動へと転回し、「文化左翼」的なベクトルを強めていたアメリカのリベラル派は、こうした理念のもと、アメリカ社会の主流派を構成してきたWASPとは異なる背景をもった、多種多様なマイノリティの文化とその歴史・伝統を学ぶ機会を提供できるように、教育カリキュラムの変革をめざしたわけです。だが1988年にスタンフォード大学でおこなわれた「西洋中心主義的」な歴史教育の抜本的な見直しにたいして、極端な多様化と、寛容の名の下に進行する社会の遠心化傾向は、アメリカ文化の根本を破壊してしまうと「保守派」は危惧を表明します。ヨーロッパ文明の基層を形成してきた偉大な古典・聖典(カノン)は、やはり合衆国市民に共通に課されるべきいわば基礎教養として、誰しもが必修のカリキュラムのなかで学ばれるべきである、という主張です(注)。高等教育を舞台としたカノン論争は、保守とリベラルのあいだの「文化戦争」の一変奏として展開されました。このあたりの事情を把握しておくことは、現在のオバマ現象からトランプ現象へのアメリカ社会の大きな振幅を理解するうえでも、必須のことがらです。
 リベラル派がポストモダニズム思潮の影響を受けて文化左翼的な方向へと急進化したのには、それなりの理論的・歴史的な背景がありますし、それがリベラルの大衆的ないし国民的な基盤を弱体化させたという結果だけをもって、こうした動向を批判するのは一面的でしょう(この点の詳細については稿をあらためます)。けれども、歴史観の問題として、ポストモダニストや多文化主義者による西洋中心史観への批判は、片手落ちだといわざるをえない面があります。一言でいえば、道徳的で規範的な批判と事実的な認識とが、十分に区別されていないことが間々みられるのです。単純にいっても、多くのポストモダン的多文化主義が、政治・軍事面にとどまらないポストコロニアル状況での西欧の覇権(ヘゲモニー)――エドワード・サイードはこれを「文化帝国主義」の問題として規定しました――を批判するとき、現状認識として、西欧の非西欧にたいする文化的支配や優越を前提しているといわざるをえません。そのうえで、西欧の非西欧にたいするインフォーマルな権力の存在が、道徳的に正当化できない不当な支配として告発されることになるのです。
 だとすれば、当たり前ですが、ヨーロッパの文化的覇権を規範的な観点から不当なものとして批判するということと、そもそもそのような覇権など幻想にすぎないと否定することとは、べつのことがらとして区別されるべきです。後者のより過激な主張も、まったく裏づけを欠いた話というわけではじつはないのですが、ここではあつかいません。多くのリベラルな多文化主義者が前者の立ち位置をとっているとすれば、やはり近代ヨーロッパをよくも悪くもここまで強大なグローバル・パワーとしたその知的・文化的な背景を探ることは、依然として重大な課題であることに変わりはありません。それどころか、剥き出しの力による世界支配が終焉したあとも、西洋文明が知的・文化的権力という「ソフトパワー」を駆使して、ポストコロニアリズムの時代にも密かに大きな影響力を行使しつづけているという点を強調するならば、この文明社会の知的・文化的な原動力の秘密を暴こうとすることは、よりいっそう重要だということになるでしょう。

(注)多文化主義化したリベラルにたいする批判としては、しばしば新保守主義者として規定されるアラン・ブルームの『アメリカン・マインドの終焉』が有名ですが、リベラル派のなかでもニュー・レフト(新左翼)以降の動向にたいして批判を強めるようになったリチャード・ローティの反基礎づけ主義的なエスノセントリズムが、もうひとつ重要な批判です。大学教育において、自由人たる市民が身につけるべき基礎教養がどのような内容のものであるべきかという問いをめぐって、ブルームとローティの議論を軸に整理したものとして、つぎの文献があります。藤本夕衣『古典を失った大学――近代性の危機と教養の行方』(NTT出版、2012年)。

◆ 西洋文明の基底にある二大潮流

 そういうわけで、ポストモダンを経た現代にあっても、ヨーロッパ文明を形づくってきた文化伝統について知ることは――それを批判するためにも――不可欠です。ただし、ここでもうひとつ反論を想定することは可能です。ヨーロッパが生みだした近代性(モダニティ)の最大の特徴は、特定のコンテクストを超越したその普遍性にあるのであって、ヨーロッパ近代の普遍的な理念(自由・平等・人権・科学的思考など)や制度(民主主義・立憲主義・産業技術体制など)は、ヨーロッパのそれまでの歴史や伝統から切り離されて、文化的なバックグラウンドによらず原理的には世界のどこにでも移植可能である点にこそ求められるのではないか――。このヨーロッパ近代の普遍性という問題も重要なイシューですが、ここでは次の点だけ指摘しておきたいと思います。たしかに以前は、近代社会の基本原理はヨーロッパ世界で確立されてきたとはいえその地域を超えて普遍的に妥当するものであるので、近代を理解するうえでヨーロッパの前近代的な思想伝統にまでさかのぼる必要はないと考えられてきました。しかし、近年のインテレクチュアル・ヒストリーを中心とする人文系の研究の蓄積は、たとえば近代黎明期の宗教論争や、ルネサンス以来の古典文化の復興についてある程度習熟していなければ、結局のところ近代ヨーロッパの核心に触れることはできないのではないか、ということを示唆しています。そして、ヨーロッパを震源としつつ世界化した「近代」というものがわれわれの社会をも根底のところで規定している以上、現代世界のことを深く理解しようと欲するならば、ヨーロッパ文明の基層に存在するこうした伝統について、われわれもけっして無関心ではいられないのです。
 それでは、近代というタイムスパンを超えてヨーロッパ文明の根幹を規定する知的・文化的な伝統として、どのようなものが考えられるでしょうか。もちろん、ローマ帝国によって政治的に統一されていた古代世界解体の引き金となり、中世西ヨーロッパ世界の主役となったゲルマン諸部族の文化が大きな役割をはたしたことはいうまでもありませんし、多文化主義的な視点からは、先住民族ケルト人たちの織りなす精神生活も、じつはいまだにヨーロッパの文化を深いところで規定しているといったことが注目されます 。ただここでは、西洋文明の基層をなす二大要素として従来解釈されてきたヘレニズムとヘブライズムについて、その基本的なところを見ていくことにしたいと思います。そのための格好のガイドとして、以下では岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』(岩波ジュニア新書、2003年)をとりあげましょう。

◆ ヘレニズム――「哲学」の起源

 以下では主に、ヘブライズムと呼ばれるユダヤ・キリスト教の聖書的伝統に焦点をあてたいと思いますが、先だってヨーロッパ精神史のもう一つの柱であるヘレニズムについても一瞥しておきましょう。ヘレニズムは、ギリシア人たちがバルバロイと名指された異民族との対照で自分たちにあたえた呼称であるヘレーネスに由来することばで、古代ギリシアの思想・文化全般を表現する概念としてもちいられています(cf. 2頁)。「野蛮人」を意味するバルバロイとの差異を強調しつつ、ほかの動物とは異なった人間に固有の相応しい生き方をしているのが、われわれヘレーネスにほかならないという、「文明人」としての自己認識がそこには表れています。本書は、ギリシア思想の特徴を二つあげます。ひとつは人間の自由と平等の自覚であり、もうひとつは理性主義です。理性を重視するギリシア人の思考様式は、変転著しい現象世界の根底に、不変の法則性や秩序を見出そうとする志向性をもっており、それが究極的な実体を探究しようとする哲学、普遍的な自然法則を発見しようとする科学、純粋な論理を追究する数学などの高度な学問体系を発展させたのだということです(iii-v頁)。
 注目されるのは、ソクラテス学派に先立つイオニアの自然哲学者たちが、擬人的な神の理解を批判して、非人称的な実体や自然のコスモスの観念へと到達したという点です。これは、のちのアリストテレスによる「不動の動者」としての神概念を予告するものです(43-58頁)。ソクラテス、プラトン、アリストテレスにおいて、自然的な秩序に時間を超越するような真理を見出そうとするギリシア的思考は、その対象(=自然)のみならずそうした思考の主体である人間自身の深みへと向け返されることになります。「善く生きる」とはどういうことかという道徳的・倫理的な問いが、中心におかれるようになります。真善美は、人間をとりまく世界において、宇宙の真実のあり方や、均整のとれた美しい調和とはどのようなものかというかたちで問われると同時に、人間の倫理的に美しい生き方、道徳的に善い生き方、人間の本質的な目的にかなった正しい生き方をめぐる問いかけともなるわけです(59-79頁)。
 とりわけアリストテレスは、その後のヨーロッパ世界の知的思考様式に、決定的な足跡を残しました。近代の自然科学が、アリストテレスによって体系化された目的論的自然観からいかに脱却するかという知的格闘のなかで、機械論的な自然観を彫琢していったということ一つとってみても、ギリシア思想の基本的理解が近代の精神を理解するうえでも不可欠であることがわかるでしょう。アリストテレスが目的論的世界観をこれほどまでに合理的に体系化していなければ、そこからアリストテレスの道具立てを換骨奪胎するかたちで、近代の科学的世界観が生まれることもなかったように思われます。さらに、自然哲学以外の、論理学と道徳哲学という二つの領域に目をむけるならば、その影響はより持続的で連続的であることがわかります。たとえば、われわれの道徳的価値観のひとつのコアをなしているといってよい「自己実現」の理想が、アリストテレスに淵源するものであることを本書は指摘します(74-6頁)。

◆ ヘブライ一神教への関心

 西洋文明の精神史的基底を理解するうえでもうひとつ欠かせないのが、聖書に結晶するヘブライの民の一神教的信仰です。近年は、日本でもユダヤ・キリスト教への関心が高まっています。なぜでしょうか?
 社会学の領域では、日本社会が1970年代の二度のオイルショックの時期をさかいに後期近代のステージへと突入し、思潮においてもポストモダンが流行をみせるなか、サブカルチャーの領域でスピリチュアルなものへの関心も拡大したことがしばしば指摘されます 。その最大のネガティブな帰結は、終末論思想の流行のなかでの、オウム真理教が引き起こした一連のテロ事件です。戦後史のなかでのオウム事件の歴史的・思想的な含意については、多くの知識人たちが論壇で議論を展開しましたが、精神史的な観点からの批評として、たとえば大澤真幸の『虚構の時代の果て』が挙げられます 。ニューアカデミズムとも呼ばれた80年代のポストモダン的論壇とオウム的なものとの親和性を代表するのは、中沢新一の言説です 。
 地下鉄サリン事件をはじめとするオウムの凶行後のトラウマによって、宗教的なものへのポストモダン的関心はふたたび社会の表舞台からは姿を消したように思われます。とはいえ、抑圧されたものはかたちを変えて回帰せざるをえません。「失われた20年」の長期停滞により格差社会が拡大するなかで、中下層ではネット社会の浸透とともにネトウヨ的言説が社会的影響力を強めたり、あるいはより草の根レベルでの「市民運動」と結びついた「癒しのナショナリズム」に象徴されるプチ・ナショナリズム が顕在化してきたりしたのが、ゼロ年代(21世紀最初の10年)であったということもできるでしょう。他方、相対的に知的関心の高い中上層で次第に表出してきた、スピリチュアリティのひとつの代替物が、キリスト教への注目だったと説明することもできるかもしれません 。
 それはともあれ、現代世界や今日の国際情勢を把握するためにも、ヘブライ一神教について思想的な水準で理解を深めることは必要不可欠です。ところが、宗教学や神学ではとうぜんユダヤ・キリスト教にかんする研究はあふれていますが、ヨーロッパ文明の知的源泉を知るという視点からアプローチしようとすると、ヘブライの宗教伝統をしっかりとあつかった西洋哲学・思想の概説書は思いのほか少ないことに気づきます。その背景には、哲学の領域において支配的な世俗主義のフレームワークがあると考えられます。宗教的信仰に依拠しないで人間理性にもとづいて世界や人間についての根本問題を考え抜くのが「哲学」である以上、キリスト教はそこに登場すべきではない、という想定です。しかし、前述したインテレクチュアル・ヒストリーに顕著なように、いまやヘブライ一神教の知的伝統への考慮なしにヨーロッパ文明を理解することが不可能なのはあきらかです。こうした意味でも、『ヨーロッパ思想入門』はバックグラウンドにある精神史に焦点をあてた適切なガイダンスを提供してくれます。

◆ 聖書的伝統と啓示信仰の成立――ユダヤ教からキリスト教へ

 こうした文明論と精神史のパースペクティブから西洋の宗教的伝統にアプローチするときに、評者が重要だと考えるのは、ヘブライズムという分析枠組みが示唆するユダヤ教とキリスト教の連続性への着目です。宗教学やとりわけ神学においては、多くの場合にユダヤ教からキリスト教への断絶面、あるいは後者による前者の教理への批判という側面が強調されがちなだけに、この点はいっそう重要だと思われます。
 たしかにイエスは、当時のユダヤ教主流派の硬直した教義を批判し、その律法主義が、イエスがより大切だと考える神の教えに反してしまうということを、さまざまな機会をとらえて指摘しつづけました(113-7、143-8頁)。厳格な律法主義は、いつのまにか表面的に掟をまもることに人びとを終始させ(カント倫理学では「義務にもとづく行為」にたいする「義務にかなった行為」、「道徳性」にたいする「合法性」として表現されるような事態です)、人間性を喪失させてしまいます。人間の根本的な弱さを自覚することなく、みずからの義を疑うことを知らない人間には、イエスの説く愛と赦しは理解困難なのです(「パリサイ人の祈り」のエピソード、116-7頁)。
 しかし、明示的に主張されてはいないものの本書の概説をとおして多くの読者が感じるだろうことは、旧約聖書の教えのなかに、イエスが表立って強調したポイントは実際には含まれているのだということです。おそらく、イエス自身も使徒たちも、ユダヤ教とは異なるまったく新しい新興宗教を打ち立てようという意図で、自分たちは伝道・布教活動に勤しんでいるのだといった自己意識は希薄だったのではないでしょうか。むしろ、オリエント世界の国際関係に起因するイスラエルの一時的な繁栄(cf. 101頁)のもとですすんだ、教会組織の拡大や教義の体系化・形式化が、ヘブライの民の宗教をその本来のすがたから大きく逸脱させてしまったがゆえに、原点へと回帰しその精神をより徹底化することこそ、自分たちの使命だと考えたのではないでしょうか。

◆ ヘブライズムの二側面――愛する神か、罰する神か

 アニミズムやトーテミズムをふくむ自然崇拝を中心とした原始宗教(多神教)と比較するとき、一神教ヘブライズムの最大の特徴は、いうまでもなく、唯一の神の絶対的超越性です。唯一神が人知を絶した超越者であることは、とりわけ神と人間のあいだの関係性によって表現されます。一神教における神と人との関係は、絶対的な主従関係、主人と奴隷の関係です 。人間は救われるために、基本的には神からあたえられた戒律を厳格に、粛々とまもって生きていくしかないわけです。多神教の場合、人間は神々と、しばしば「水平」にかなり近い関係でコミュニケーションをとりあうことが可能であり、場合によっては神様を巧みに騙してそそのかしたり、ほかの神様と天秤にかけて自分たちにより有益な――つまり「御利益」のある――神様へと乗り換えたりもしかねません。その意味では、人びとと神々との関係は、どこまでいっても横並びの相対的なものです 。これにたいして、ヘブライズムの唯一神と人間のあいだには絶対的な隔絶が横たわっており、両者は徹頭徹尾「垂直」的な関係にあります。神の御心は人間なぞには思いもおよばない、われわれを完全に超越した存在です 。
 このことのひとつの表現は、全知全能の専制君主か暴君のような存在という、神の主意主義的な観念です。人間がいくら理性的な推論能力を働かせたところで、神意を理解することなど到底できない。そこから、神はなにか合理的な法則のような存在とは無縁であって、すべてを意のままに創り出し、改変し、解体してしまう恣意的ないし気まぐれな絶対君主としてイメージされます。自然界の法則や通常の道徳を律する自然法をも宙づりにして、奇跡や啓示をつうじて、自在に世界に介入してくる超自然的な力の所有者――。これにたいして、近代の啓蒙思想は、宗教それじたいを否定したというよりは、神がそうした恣意的な存在ではなく、反対に、法や法則によって貫徹された宇宙を創造した理性的な存在であると考え、理神論や自然神学にもとづく主知主義的なキリスト教理解を提示したのです。ですが、啓蒙思想家たちが民衆を「迷信」の淵におしとどめるものとして批判した、絶対権力を振るう「怒れる神」のイメージは、実際のところたしかに旧約聖書のいたるところに見出せます(イサク奉献のエピソード、83-6頁/バビロン捕囚、89-91頁)。
 通俗的な理解では、こうした神の絶対的超越性と人間の絶対的従属性を帰結する、冷酷なまでのヘブライ一神教の性格はもっぱらユダヤ教に帰属し、これにたいしてキリスト教は、対照的に神の愛と赦し、隣人愛を説いたヒューマニスティックな宗教であったという図式的な把握も、不可能ではありません。しかし実際には、ことはそう単純ではありえません。キリスト教の神観にも、善き人間に不条理なまでの仕打ちをするような神の性格づけや、反人間主義的というべき否定的人間観は存在しつづけますし、他方、本書で強調されているように、ユダヤ教の聖典としての旧約聖書も、愛の教説を本質的な構成要素としていることはまちがいありません。それはけっして新約の専売特許ではないのです。
 なぜ神は無から世界を創造したのか? それは、神が愛であるからです。『創世記』の神は、「他者と共にあることを本質とする神」であるといいます(92-5頁)。天地創造に先立つ無における神について問うことは意味をなさず、イスラエル人の神は「つねに世界との相関関係のうちで語られる」点に重大な特質をもっています(その点で、パルメニデスにおけるような不変不動の永遠性のうちに自足する絶対者とは異なります)。世界なしに自己充足することのできぬ神は、「他者を呼び迎えること」、つまり愛をその本質とします(cf.『出エジプト記』III.14)。しかも、この神は「言葉」を発して世界を創造したということは、応答する者を求めて世界を創造したということでもあります。では、この呼びかけに応答しうる世界内の存在とはなにか? いうまでもなく、それは人間です。自然のなかにあって、しかし自然を超出していく人間存在を、神は「自分にかたどって創造された」(『創世記』I.27)。神と世界の絶対的な断絶にもかかわらず、この世界のうちに住まう人間は、「神の似姿」として創造されたのです。このことの大きな意味は、人間も神と同様、本質的に他者を求める者だということです(95-8頁)。
 本書は、旧約の預言書が描く神のすがたに、こうした神観が顕著に認められることも指摘しています。神の「救い」を説いた「愛と憐み」の預言者ホセアの悲劇的な生には、「相手の咎を糾弾せず、そのまま相手を受容する、新約の神がほの見える」(103-4頁)。また、66章からなるイザヤ書でも、「背信と不義の民に対する神の怒りとその処罰を強烈に説いた第1~39章」とは異なった雰囲気の、第40~55章の執筆者「第二イザヤ」は、怒りの鞭を振るうヤハウェとは異なる、人間を気にかけ救いの可能性を示唆するヤハウェを前景化させるところがあるとされます。『イザヤ書』の「主の僕の歌」や『ヨブ記』に読みとることのできる徹底的な受苦の思想はまた、イエスの姿を見て、「神自身が人間の罪を背負い、苦しみ、死んで、それによって人間を受け入れたのだ」と理解するキリスト教を予告するものとも解されます。「こう理解された神は、もはや裁く神ではなく、人間の罪を背負い、人間の身代わりになるまで人間とともに苦しむ神」だといえるでしょう(105-9頁)。
 ただし、「愛を求めたがゆえに、ついに、人間を自分と対等な者にまでしてしまう」という、パウロが言うところの「神の愚かさ」というベクトルの一方で、旧約の神が人間にたいする絶対的な超越性格を保持し、前提としていることも否定すべくもありません。先述の無からの世界創造のもつもうひとつの意味は、世界には固有の質料がなく存在根拠もないということ、そしてその裏面として、「神は世界から絶対的に断絶しており、世界を超越しており、世界内のいかなる存在者にも帰属しない」ということでした(95頁)。また、有名な偶像崇拝の禁止も、神と人間世界との無限の隔絶を表現するものです。偶像崇拝の禁止は、「神を世界の中のいかなる存在者とも同一視してはならない」という命令であり、「人間の自己中心性を打ち砕く神の絶対的超越性」をしめしているのです(98-9頁)。
 こうしてみると、ヘブライ一神教の緊張と矛盾をはらんだ二重性格は、すでにキリスト教に先駆けてユダヤ教の聖典であった旧約聖書のうちにあきらかであったといわなければなりません。荒ぶる怒りの神ヤハウェと、キリスト教の無限に慈悲深い父にして子――。こうした単純化された整理は、ヘブライの聖書的伝統の根源に存する矛盾的原動力を見失わせかねません。両者の神観の緊張にみちた併存、この点の認識こそが、ヨーロッパ文明の最大の基層としてのヘブライズムを深く理解するためにけっして逸することのできないポイントだというべきです。

(評者:上野大樹)

更新:2018/02/16