書名:メランコリーのゆくえ フロイトの欲動論からクラインの対象関係論へ
著者:藤井あゆみ
出版社:水声社
出版年:2020

身体の麻痺や強迫観念、抑鬱や妄想など、精神の病が示す一見不可解な症状の背後には、物的現実とは別種の無意識的な「心的現実」が存在すると考えたのがフロイトである。フロイトは心的現実の構造化について、性欲動と自己保存欲動、あるいは生の欲動と死の欲動といったエネルギー的な実体を想定する立場から論じたが、これらの概念は生物学的な観点からのみ把握されやすい弊があった。
 これに対し、心的世界の構造化の過程を、取り込みや投射などの機制を通じた主体と対象の関係という観点から捉え直すことで、フロイト以後の精神分析に多大な貢献を果たしたのがクラインの「対象関係論」である。
 本書は、メランコリー(鬱病)の病理の考察が媒介となって、フロイト理論がアーブラハムとラドーの議論を経てクラインへと継受されていったこと、および、その継受の過程を通じて「欲動」から「対象関係」へと議論の重点がシフトしていったことを、文献の精査によって裏付けた労作である。
  序章において、著者はメランコリーの概念史の中にフロイトのメランコリー論を位置付けてその特徴を明確化したのち、第一章においては、メランコリー患者 の自我を苛む「内なる他者」が「超自我」であることを確認する。その上で、第二章では超自我がもつ攻撃性の出自を、フロイト、アーブラハム、ラドー、クラ インの理論から解明する。終章ではこの攻撃性の「昇華」すなわちメランコリーの治癒の過程を、喪の仕事としての「創造行為」に関する彼らの理論から導いている。
  本書の特筆すべき点として、まず、文献読解の緻密さが挙げられる。フロイトからクラインに至るまで、重複しながらも微妙なズレを孕んで継承・展開される 四人の論者の錯綜した理路を途切れることなく追跡しており、その丹念さには舌を巻く。しかも、日本ではまだほとんど紹介されていないラドーの理論についてまとまった知識を提供していることが、本書の価値をいっそう高めている。
  第二に挙げるべきは、メランコリーの治癒としての「喪の仕事」の過程を論ずるに際し、クラインの言うところの「妄想分裂態勢」から「抑鬱態勢」への移行を、超自我による「赦し」と、それに伴う主体の自立という観点から捉えていることである。
 フロイトが宗教を「錯覚」として批判し、聖書の説く隣人愛を不可能とみなしたこともあってか、ラドーやクリステヴァなど一部の論者を除けば、精神分析家は一般にキリスト教の中核たる「赦し」の主題を扱うことを避ける傾向にあった。しかし、とりわけメランコリーや強迫神経症において明らかなように、対象とのアンビバレントな関係の克服は分析治療における本質的な契機であり、そこに「赦し」の主題が関わることは疑いない。その点を的確に認識した著者のクライ ン理解は、今後の治療論や宗教心理の研究に大きく寄与するであろう。
  もっとも、本書では「(超自我によって)赦される」 という面からのみ「赦し」の主題が扱われている。憎悪の対象を「(主体が)赦す」という側面、およびこれら両側面の関係については、著者が今後さらに考究してくれることを期待したい。
 「あとがき」のなかで著者は、本書を「かつての自分に向けて書いた気がする」と言っている。そこからも伺えるように、本書の背景にあるのは、かつてメランコリーに切実に苦しんだ著者自身の経験である。堅実な学説史研究でありながら、どこか当事者研究にも似たリアリティを感じさせるのは、そのためかもしれない。その意味で、本書そのものが、著者がメランコリーを乗り越えようとする過程で紡いだ「喪の仕事 Trauerarbeit 」の集成とも言えよう。  
 現在の精神医学では、鬱病の治療は薬物療法と認知行動療法が主流であろうし、その効果はむろん歓迎すべきものであろう。しかし、人間がメランコリーを病み、そこから癒えることには、薬理や認知の偏りといったものに還元することのできない深遠な人間的意味があることを、この本は改めて気づかせてくれる。多くの人に本書を推薦したい。

※藤井あゆみさんは、二〇一四年三月人間・環境学研究科を研究指導認定 退学、二〇一七年七月博士号取得。現在は同志社大学グローバル・コミュニケーション学部嘱託講師。

初出:『総人・人環フォーラム』38号(京都大学人間・環境学研究科)

(評者: 舟木 徹男)

更新:2020/03/30