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綿矢りさ著、
 『勝手にふるえてろ』

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書名:勝手にふるえてろ

著者:綿矢りさ

出版社:文藝春秋

出版年:2010


 

綿矢りさは、同郷の作家ということで勝手に親近感を感じており、最初の3作は昔に読んでおりまして、最近、『勝手にふるえてろ』(2010、文藝春秋)をやっと読み、これは、難も感じる一方でこれまで読んだ綿矢作品の中で一番面白く、途中で思わず おもろー! と声に出してしまいました。以下に、どこが「おもろー!」と感じたのか、を考えてみたいと思います。



まず、「難」 だと感じたところは、前半の「キャラ小説」ぽさでした。
ここで「キャラ小説」といったのは、「こういう奴いるいる」といういるいるネタで読ませる作品を便宜的にそう読んでいます(そうした性質の作品を表わす批評用語があるのかもしれないが知らない、ぴったりな語をご存知の方はご教示いただきたい)。
たとえば(小説ではないですが)、「俺、2時間しか寝てないわ」で知られる「地獄のミサワ」や「アラサーちゃん」のような、いくつかの定型的カテゴリとしてのキャラを楽しむ作品、近頃多くありますよね(ミサワは「いないいないネタ」もありますが)。
本作では、同僚「ニ」のキャラがあまりに「ミサワ」ぽく、「こういう奴いるいる」とニヤッとしてはしまうしそれに対する主人公のツッコミも小気味良いのでありますが、そのリアルさに逆に、作りモノっぽさを感じてしまったのでありました。(ちなみに次作の 『かわいそうだね?』 所収の「亜美ちゃんは美人」にもミサワ的な男が登場しています。)
他、ラストあたりがやや強引ではないか、この主人公が突然こんな電話するかなあ? などという点も気になったのでありますが、では、どこが面白かったかというと、これは恋愛小説に見えて信仰の小説ではないか! とおもわれたところでした。


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この小説は、レビューなどでは 「二人の男性の間を揺れ動く女性の心」云々、と紹介されており、たしかに、あらすじをひとことで表わすとその通りでありまして、それ自体は、よくある少女漫画で百万回くらい目にした黄金パタンです。
黄金パタンとは、

「入学してからずっと先輩に片思い/そんなとき幼なじみに告白されて/でもあたしには先輩がいるから/(略)/先輩に告白したけど失恋しちゃった/あんまり悲しくないのはどうして?/先輩への思いは恋じゃなくて憧れだったんだ/今あたしがホントに好きなのは……云々」

という類のやつのことです。この小説も一見、この陳腐なパタンの反復ですし、ネットのレビューなどでは二人の男の間での主人公の行動の幼稚さを以て本作を批判するものも散見されます。
が、私はむしろ、この陳腐なパタンに潜んでいる信仰の問題を浮き彫った小説として読んだのであります。あるいは、信仰の問題とは現実には陳腐なパタンとしてしか現れないのだ、といえるのかもしれません。


OLである主人公「ヨシカ」は、同僚である「ニ」(これが「ミサワ」的な男)に交際を申し込まれています。一旦はそれを受けるものの、心の中には常に別の男性「イチ」がいます。が、「イチ」 は中学の頃の同級生で、それ以降ほぼ会ったことがなく、主人公は「イチ」にまつわるさまざまなことをこまごまと覚えているけれども、あちらはこちらの名も覚えていない始末。
つまり、「イチ」への思いは、主人公の頭の中だけでほぼ完結しているのです。


最初、ぱっとしないなあ、と読み進めていたのが俄然「おもろー!!」と感じたのは、大人になった「イチ」と主人公が絶滅動物についての会話をするくだりでした。「ニ」にはろくに聴いてももらえなかった絶滅動物のマニアックな話を、「イチ」は当たり前のように受けとめ話にのってくれるのですが、そのくだりの「ヨシカ」の述懐は、こうです。


 「でもなんだろう、このむなしさは。(略) 気が合えば合うほど、二人の間の永遠に縮まらない距離が浮きぼりになる。(略) ふつうよりちょっとだけ距離の近い平行線、なんの火花も散らなければ、なんの化学変化も起こらない」(p.96)



ここで、あっ、と思ったのでした。これは! 倉橋由美子の「LとK」の末裔ではないか! と。
倉橋由美子の60年代の作品には、「L」 と 「K」 という、男女の双子の対が頻出しますが、『勝手にふるえてろ』の上の記述が、作風的にはまったく似ていない筈の当時の倉橋作品を思い出させたのでした。


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少し脱線しますが、倉橋由美子は1960年にデビューし、理知的で抽象的、寓話的な作風をもつ作家です。
初期の倉橋作品において登場する「L」と「K」は、生まれる前に胎内で抱き合っていた男女の双子であり、「身体なしに媾ることができる」存在であります(『倉橋由美子全作品』新潮社、p.245)。裏を返せば、身体では媾ることのできない存在であって、「LとKは精神的双子である、だが/ゆえにLとKは結婚できない」 というのが、1960年代の倉橋作品で繰り返し描かれた構図でした。
綿矢りさの上の記述に倉橋由美子を思い出したのは、「平行線」である、だが/ゆえに「なんの化学変化も起こらない」、何も生まれない、という部分によります。そして、「L」が社会的存在であるために、「K」とは異なる者を夫として選ばねばならなかったのと同じく、「ヨシカ」もまた「ニ」を選ばねばなりません。


また、倉橋作品では、女主人公「L」にとって「K」は、「L」の内なる男性性といいますか、非女性性の投影といえる存在として書かれていました。(ユング的に、アニムスといってよいのでしょうか。)
たとえば「結婚」という中編では、「L」 は夫「S」とは別に、内的パートナーである「K」を必要としています。女性作家である「L」にとって小説を書くことは、内なる男性たる「K」との交信です。小説を書くのは「Lの男の部分に属する」才能であり、「L」は夫「S」には作家としての自分を見せませんし、夫もそれを見ようとはしません。
夫は「K」の存在に嫉妬しますが、「L」が作家としての自分、内的な男性性を捨てない限り、「L」の内には「K」が棲みついているのであり、「S」は「L」の完全な夫となることはできません。


倉橋由美子の「L」と「K」の物語は、抽象的・論理的な作風で一見とっつきにくいのでありますが、陳腐な現実に落とし込んでみれば(倉橋さんはこうした読まれ方は好まないかもしれませんが)、たとえば現実の男女関係をもちながら、別の次元での、内的な、いわば天上の恋のようなものをひっそりもっている人、それを捨てられない人はたくさんいると思うのです。そしてそれは、信仰のようなものだと思うのです。
『勝手にふるえてろ』における、主人公の「イチ」への思いも、倉橋における内的男性としての「K」の存在と同様、単なる恋愛の対象ではなく、現実の男女関係に対置されるところの内なる信仰のようなものの対象という面があると思います。
『勝手にふるえてろ』 では、主人公はオタクだという設定になっており(乙女ロードを愛していることを思えばおそらくは腐女子でしょう)、象徴的であると思いました。
オタクというのは、現実の他に別の次元(まさに、二次元という次元!)を信じている人ではないですか。腐女子とは、現実の男女関係の他に、全きユートピアとして、別の次元をもっている人たちではないでしょうか。
そして「イチ」に対する主人公の想い方も、「イチ」を王子にした二次創作(?)を描いてみたりと、どこかオタク的なのです。よってこれは、二人の男性の間で揺れる話というよりも、正確には、現実の関係性と天上の信仰の間で揺れる話であるのです。


#なおこの作品の魅力のひとつは、「いるいる」キャラである「ニ」に比して、「イチ」のキャラの特異さ(とっても綿矢りさ的な)なのですが、それについては割愛します。



ところで、先にも述べたように、綿矢りさは、主人公が天上の信仰でなく「現実」の男性を選ぶところでこの作品を閉じています。
これはおそらく、ビルドゥングスロマンの定型なのでありましょう。
先に挙げた倉橋由美子の「結婚」でも、「L」は「K」と双子でありながらも結婚という外皮を選びます。またやはり、倉橋同様の男女の双子というテーマを描いた少女漫画に、吉野朔美『ジュリエットの卵』がありますが、これもまた、少女が双子だけの世界から脱して現実の対象を見つける話であります。
「現実」の対象と向かい合うまでの過程というのは、誰もが多かれ少なかれ格闘するところであるから、共感も呼びやすく、必要とされるのでありましょう。
思えば、綿矢りさは、デビュー作『インストール』でも、押し入れ=インターネットの世界から現実の世界へ戻るところで話を閉じていたのでした。
しかし、私たちが「現実」を選んだその後、内的な信仰はどこへいくのであろう。それを完全に捨て去ることなどできるのであろうか? それはどんなふうに形を変えて生き延び、どんなふうに生き延びないのか。私はこの先、捨て去ったそれと、或いは生き延びたそれとどのように共存してゆけばよいのか。そこ――「それから」に焦点を当てた物語も、読んでみたいものだ、と思うのでありました。





※ 以上、個人ブログより転載&修正

(評者:村田智子/むらたさとこ)

更新:2013/09/20