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中村英代著、
 『摂食障害の語り 〈回復〉の臨床社会学』

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書名:摂食障害の語り 〈回復〉の臨床社会学

著者:中村英代

出版社:新曜社

出版年:2011


 

かつて摂食障害の治癒は象の墓場、と言われていたらしい。象の墓場とは誰も見たことのないものの比喩で、すなわち、それほど予後が悪い、という意。
ずいぶんと悲観的な表現であるが、その摂食障害の「回復」に光を当てた本が、出てたのですね。


摂食障害といえば皆さんどんなイメージお持ちだろう。
摂食障害といえば、どの芸能人が激痩せしたとか食べて吐いてるだとかのゴシップを思い出す人、親しい誰かがそれを患っているよ、という人もあるでしょう。
そして、ダイエットのしすぎで罹る病気だよね、とお思いの方も、あるいは、大人になりたくない少女の病気だ、とお思いの方もあるのでは。
が、本書はそうした、病因や患者の心理はとりあえず括弧に入れて、「回復」に焦点を当てるというスタンスを取る。これは「回復」についてこれまでほとんど語られてこなかったゆえ。


私はかつて摂食障害についての本をいろいろ読んでいたのですが、昨今20代から40代までの女性たちと心理学について話す機会があり、その中で改めて、女性たちの、この病に対する関心の高さを知った次第。
そして、私が摂食障害についてよく読んでいた10年ほど前もたしかに、読んだほとんどの本は「病因」をめぐるものであった気がする (こちらの興味のせいもあったのだろうが)。
で、そのあたりについてまとめたのがまず、第1章「摂食障害はどのようにとらえられてきたか」。
これまでの摂食障害をめぐる言説を整理した章なのだが、この章だけでもかなり読み応えありです。
それによると、これまでの摂食障害の語られ方は、(複合的な立場はあれど、) (1)個人の発達や心理からの説明、(2)家族関係からの説明、(3)社会的に原因があるとする説明、に大別される。ここでは、(1)(2)のような母子関係や患者の心理といった心理に原因を求める見方に対する、(3)に含まれるジェンダー論的アプローチからの批判などは、それだけ取り出しても興味深いテーマである。
(1)について、「摂食障害は、日本では病理として認識され始めると同時に、女性性を否定する病いとして理解されてきた」(33頁)と指摘されている通り、たしかに私が読んだ中でも、「患者は自分が女であることを嫌悪していた→治療を受け、女性性を受容できるようになり、快方へ向かった」という図式で描かれた症例はしばしば見られた。これについては、筆者がオーバックや小倉を引いて述べている通り、「社会が規定する女性役割」に何の検討も加えないままそれを「患者に受容させること」=「治療」とみなす点、それがしばしば「男性医師による患者の価値観の修正」という形で表れる点、などなどの指摘は、「いまなお、成熟拒否説や女性性の否定説は(略)摂食障害解釈として大きな影響力をもっている」(35頁)のであるからには、今でも大いに注目する価値のあるところだと考える。

が、しかし、本書では、筆者はここに留まらない。
筆者は、ジェンダー論・フェミニズムの立場から摂食障害にアプローチしてきた浅野の問題意識を引用しつつ、次のような課題を指摘する。ジェンダー論から摂食障害にアプローチする場合、どうしても、患者である女性を、社会から抑圧を受けるだけの非主体的・受動的な存在として把握しすぎてしまう。
そして、この課題に対し筆者は、社会環境というマクロな視点をふまえつつも、その中で当事者たちがどのように「回復」しているかに注目しようとする。
いわく、「原因論」でもなく、「治療論」でもなく、「回復論」(55頁)。

たしかにこの視点は盲点やった!と思った。盲点といいますか、摂食障害について社会構造などの大きな視点から考えるとき、一般的原理を見出そうとするあまり、どうしても、個々の散文的プロセス、とでもいうのかな、実際的な罹患や回復の過程に対する視点が足りないな、と感じていたのであった。
摂食障害が先進国の・若い・女性に多い病であるからには、そこに先進国の・若い・女性に特異的な社会構造が関係していないはずはなく、その構造そのものを問い直す・変革することももちろん重要であると私は考えるが(その重要性は筆者も認めている)、ただ、個々の患者の病にはもっと実際的なプロセス、もっと身体や日常に密着した個別的なプロセスがあるはずであって、そこに私は上手く注目することができてこなかったので、このような研究が出版されたのは大変有難いのです。
つまり、「個人的な問題を社会的な問題としてとらえ直せるようになっても、それが直接には過食や嘔吐を消してくれるわけではない」(238頁)のであって、ではその「直接」のところを探ろう、という――そしてそれを、医学の言説としてでなく、個々の語りを聞く、臨床社会学という形で行う、というのが本書の試み。

と、ここでひとつ疑問が出てくるのだが、「原因論」を括弧に入れて「回復」に焦点を当てる、ということは、人が病むそれなりの原因があるということを覆い隠し、回復した状態だけが「正しい」状態である、という抑圧的な規範を強めてしまうことにならないか? と。
でもこの点にも筆者はデリケートに言及しています。
「回復を良き状態、目指すべき状態として安易に想定することは、治療を強いたり、この社会への適応を強いたりといった抑圧的な効果を生む。こうした意味では、回復すること自体に素朴な価値をおくことはできない。しかし、『回復することもできるけど、回復しなくてもいい』というスタンスと、ただ単に『回復しなくてもいい』と言い放つスタンスはずいぶんと違うだろう。(略――後者は)回復を切実に求める人々への助けにはならない。(略)本書では、回復しなくてもいいが、回復することもできる、そんなたくさんの可能性を提示することを目指したい」(6頁)

***

さて、第2章以降は聞き取り調査を通じての考察。
第2章では、これまで摂食障害者の心性として語られてきた「自己コントロール欲求」が、あらかじめ存在するものというよりは、体重の減ってゆく過程で身体感覚とともに生じたというケースが紹介されたり、過食に至る過程の聞き取りの中でそれが「意志の弱さ」などでなく生理的現象によるものであることが指摘されるなど、あくまで、病因論で求められがちな「摂食障害者に共通の心理」から症状を説明するのでなく、具体的・身体的なプロセスに焦点が当てられている。
また、随所で、摂食障害をめぐる言説が患者に与えた影響についても窺うことができる。たとえば第5章では、摂食障害の原因を家族関係に求める論を「利用した」と語る患者の回想が紹介されている(204頁)。第6章では、自分の病を社会の問題としてとらえつつも、そのとらえ方の危険性をも指摘する元患者の文章が紹介されている(237-8頁)。

本書のメインである「回復」についての語りも、具体的であり多様である。 第4章で紹介される18名の「回復者」からの聞き取り調査の中で、とりわけ印象的であるのは、「Pさん」のケース。 Pさんは「プレイ・ステーションに夢中になり、そうすると両手がふさがるので過食ができなくなり、ゲームに集中すると食に意識が行かなくなり、ゲームをクリアした時点では食べない状態に胃が馴れてしまっていた」(!)のだという(175-181頁)。一般法則見出し志向の摂食障害論ではたしかに見えにくいであろう、多様で具体的な「回復」の物語のひとつである。
他、少し驚いたのは、自己啓発セミナーやホメオパシーなど、ややあやしい・胡散臭いと思われがちな(というか私がそう思ってるのだが)方法を、「回復」のきっかけとして挙げている人も一定いること。また、美容整形が「回復」のきっかけとなったというケースなどは、前述の諸病因論から見れば非本質的な解決のように見えてしまう。だが筆者は、それらに対し価値判断は加えず、それらが個々の人々にとって「回復」のきっかけとして感じられたという事実のみを記述する。


というように、まさに「原因論」一色の中で、摂食障害の根本原理のようなものの考察に重心をおいてきた私には、大変貴重な視点を提供してくれる本であり。
読み終えての課題としては、だがしかしやはり、本書でも随所で確認されている通り、この病は社会の構造と密接に結びついているという視点もやはり長期的には重要であろうから、その視点を、いかに、個別の・具体の物語と乖離することなく考えてゆくか、ということ、大きな視点と個別の視点をどのように接続していくか、ということだな、とおもいました。
第6章で、「解決志向アプローチ」の考え方に触れつつそれを、「Why(なぜ摂食障害になるのか)からHow(どうしたら回復できるのか)」への転換と説明されており、この言葉を借りるならば、これまで Why ばかりが論じられていたり、Why に How が引きずられてしまったりしてきたわけであるが、そのようにならない Why のあり方がどうにかありえないものかな、と。


***

あと、これはおまけですが、あとがきで中村さんが書いておられることばが良いなあとおもったので引用しておきます。

「先行研究を批判し、ほかの専門家と闘い、自己の議論の優位性を主張する。こうした知的ゲームには、学問を押し進めていく力がある。あえてそうしたゲームに乗ることは、研究という営みの作法でもあるから、それ自体を否定しようという気は全くない。けれども、批判や告発の言葉をできるだけ使わずに、やさしい気持ちのままでとは言わないにしても、少なくとも攻撃的ではないスタンスで学問ができないものだろうか。(略)立場や学派が違っても、ある問題の解明や解消という目的を共有している者同士が、つながれないはずがない。もしつながれないとしても、無意味に闘い合う必要はない」(272頁)


大学の、あの、なんというか嫌味を言わなあかん感じ、攻撃的にならんとあかん感じにどうも馴染めなかった私としては、こういうことを言うてくれる研究者もおられるのだなあ、とおこがましいですが頼もしく感じた次第でありました。


(評者:村田智子(むらたさとこ))

更新:2013/02/02