日本でニートが問題になるはるかに前から、労働を拒む一群の人々は世界中に存在していた[1]。実に様々な人々が「アンチ労働」者として発生してきたが、そこには詩人も含まれている。ここでは、極貧の極みにいたにもかかわらず実際にあまり働くことをせず、ただ「ぢつと手を見」ていた石川啄木に、まずフォーカスしてみよう。啄木はこんな歌を作っている。

こころよく 我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて死なむと思ふ[2]

ここで啄木は何を歌っているのだろう。啄木は常に「なにかしなければならぬ」[3]という意識にさいなまれていた。だがその「なにか」とは、自らが労働力を売って、貧窮する一家の暮らしを成り立たせることではなかった。この時啄木が考えていたのは、詩作に関する新しい理念を見出すことであり、それは、詩を空想より現実の方に一歩進め、より生活に密着した詩を作るべきだということだったのである[4]。

しかし、彼は評論の中ではしきりと空想を批判するが、事実彼自身、空想家を脱することはできていない。当初『仕事の後』と題された『一握の砂』では、生活に密着したかのように作られながら、実際は啄木の自意識によってエゴイスティックに形作られた空想的な歌が並ぶだけである。

つまり、上記の歌における「仕事」とは、生活をするための賃労働としての仕事ではなく、空想原則における「仕事」を意味しているのだ。詩作における大きな転回を果たした(と啄木が考える)「仕事」の後に、彼はただただ自らの貧乏を嘆き、それをネタにして、その形式が生活に密着していることだと勘違いしていたのである。

[1] トム・ルッツ著『働かない』小澤英実、篠儀直子訳、青土社、2006年

書名:働かない――「怠けもの」と呼ばれた人たち
著者:トム・ルッツ
訳者:小澤英実、篠儀直子
出版社:青土社
出版年:2006年

[2] 石川啄木著『啄木歌集』岩波文庫、1957年

書名:新編 啄木歌集 (岩波文庫)
著者:石川啄木
編者:久保田正文
出版社:岩波書店
出版年:1993年

[3] 同著『ROMAZI NIKKI』岩波文庫、1977年、p. 138

書名:啄木・ローマ字日記 (岩波文庫 緑 54-4)
著者:石川啄木
訳者:桑原武夫
出版社:岩波書店
出版年:1977年

[4] 同著『時代閉塞の現状・食らうべき詩』岩波文庫、1978年

書名:時代閉塞の現状,食うべき詩 他10編 (岩波文庫 緑 54-5)
著者:石川啄木
出版社:岩波書店
出版年:1978年

この啄木の姿は、現在の雇用問題に直面している一部の人たちと、ある相似形をなしているように思われる。

例えば、その人々(中島義道著『働くことがイヤな人のための本』[5]に登場するような人、あるいは本書をボロボロになるまで読みこんでしまった人をイメージするとわかりやすい)は、「仕事」というものを、啄木が歌に詠んだような、なにか非常に特別で神聖で、自らを世に知らしめるための野心的な活動として、あるいは、自らの存在理由になりえ、それによって自らも成長させるような活動として、捉える傾向がある。特に現代では、その活動が就職先で行う仕事と合致することを求めようとしてしまう。若者がなぜ3年で会社を辞めるのか、その背景には、城繁幸が指摘して見せたような構造的な問題[6]があるにしても、自らが野心的に抱く「仕事」と、現実の仕事が不一致であるという事実に気づいてしまうことが、一つの影を落としていることは事実だろう。

また、啄木が詠んだように、「それをし遂げて死」のうとすら思うような非常にヒロイックな仕事観が、私たちの間に横たわってもいる。そのような仕事観が持たれることによって、啄木のような人々は、さらに自らを追い込み、そして自ら闇の中に入っていってしまう。『一握の砂』において冒頭の歌がおさめられた章の題名は、「我を愛する歌」であった。こんな題名をつけてしまう啄木の、この途方もない自意識こそ、啄木の精神を病ませた張本人であったわけだが、私たちにもまたこのような自意識が、自分で自分を縛るものとして機能してはいないだろうか。

「仕事」を自己実現のための手段として捉えていることからくる、若者特有(若者に限らないが)の齟齬と、自意識によるヒロイックな仕事観。これらは、これからの社会にあっては修正される必要があるだろう。食べるための労働と自らが輝くための仕事は、はっきり区別した方がよいし、死を賭してまで成し遂げようとする仕事は、その人の信念がはっきりしなければ少々危なっかしい。

「仕事」が持つ意味がどうやら拡張しているようだ。その混同された「仕事」のイメージによって、私たちは様々な議論を「雇用問題」という形で一元化して論じてきてしまっている。「雇用問題」を巡って、その絡み合った糸をほぐしていく作業をしなければならない。

[5] 中島義道著『働くことがイヤな人のための本』日本経済新聞社、2001年

書名:働くことがイヤな人のための本――仕事とは何だろうか
著者:中島義道
出版社:日本経済新聞社
出版年:2001年

[6] 城繁幸著『若者はなぜ3年で辞めるのか?』光文社新書、2006年

書名:若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来 (光文社新書)
著者:城繁幸
出版社:光文社
出版年:2006年

はからずも爆笑問題の太田が社会学者本田由紀に向けて言った一言、「仕事がなきゃ幸福は味わえないのか」という問い[7]が思い起こされてくる。そう、私たちは「仕事」というものを、啄木が詠んだようなものとして、非常に意味あるものとして持ちあげすぎているのである。それは、仕事を文字通り神聖視するということだけでなく、「仕事」という領域に別の問題系を持ち込みすぎているということでもある。仕事へのある種の「期待」が込められすぎているのだ。

それは例えば、自らの「生きづらさ」の問題を、労働の場つまり雇用問題につなげる議論(例えば雨宮処凛など)にも見出されることだ。そのような議論は、今まで社会の構造上の問題が、個人的な心の問題に還元されていたことを批判する。むろん、その指摘は一方で正しいし、彼女が声を上げて主張する「生きさせろ」[8]という言葉は、事実社会を動かしている。だが、むしろここでは、その議論をもう一度転倒させたいのである。果たして雇用が確保されれば、私たちの「生きづらさ」の問題は解消するのだろうか。安定した社会の構造が築かれれば、また、不安定雇用にさらされた人々に即した制度が作られれば、私たちの将来への不安・不満は、全て解決するのだろうか。

こうした「雇用問題」から見えてくるのは、実は私たちの幸福の問題であり、幸福をどのようなものとして概念化するかという、想像力の問題である。ただ問題なのは、こうした個人の問題として提起すること自体が、すぐに「自己責任論」として理解され(それは太田に対する本田の姿勢とそっくりだ)、切って捨てられることである。気をつけなければならないのは、そのような提起が、ネオリベ的言説に回収されていってしまうことであり、責任を個人に還元させること自体ではないのだ。自己責任とは、むしろ個人の自律である。自らの責任でその環境を選び、自らの責任で生きていくのであれば、そこには何も間違いはないし、失敗もない。私たちはそのようにして自己責任において生きるという覚悟をしなければならないし、また、組織や労働の質的な変化が起こっている中[9]で、世界的な不況といわれる時代に直面する中で、私たちは従来の仕事観から脱却する可能性にも、立ち会っていることを自覚するべきだろう。

[7] 爆笑問題、本田由紀『爆笑問題のニッポンの教養 我働くゆえに幸あり?』講談社、2008年、p. 126

書名:爆笑問題のニッポンの教養 我働く ゆえに幸あり? 教育社会学 (爆笑問題のニッポンの教養 30)
著者:太田光、田中裕二、本田由紀
出版社:講談社
出版年:2008年

[8] 雨宮処凛著『生きさせろ』太田出版、2007年

書名:生きさせろ! 難民化する若者たち
著者:雨宮処凛
出版社:太田出版
出版年:2007年

[9] 岩井克人著『会社はこれからどうなるのか』平凡社、2003年

書名:会社はこれからどうなるのか
著者:岩井克人
出版社:平凡社
出版年:2003年

仕事に対して過剰な期待を込めてしまうという事態は、ある種の“依存”に他ならない。社会的にこうあるべきと設定された収入や職業に達しないことから生ずる不満は、依存心によっている。またそれだけでなく、あるべき仕事についていることによって、私たちが幸福であり得ると考えることも、依存なのだ。

 現代の雇用問題に直面する中で、私たちはこの「仕事への依存」から脱する契機を得ていると考える方が、生産的ではだろう。「七割は課長にさえなれない」[10]という時代になっているのなら、私たちはそろそろ、新しい仕事観を持ち、新しい価値基準を立てていく必要があるのである。たとえそれが「負け組」根性だと指摘されてしまうにしても[11]、現状を冷静に分析して、責任主体をはっきりさせいけば何も問題はないはずなのだ。

 なにしろ、新しい価値基準、オルタナティブを作ろうという動きは、すでにたくさん現れているのだが、それらはなかなか確たる姿を作り出せていないのだ。むしろ、そのようなオルタナティブが表現されていくにつれ、ますます精神的・経済的貧しさが強調される(まさに啄木!)形となっている感が否めない。

私たちが今すべきなのは、仕事に関するいらぬ期待と自意識に執着せず、仕事をもっとシンプルに捉えていくことである。そして「規制の考え方に疑いを抱き、それを明言する勇気をもった最初の人」[12]であるアッシジの聖フランチェスコのように、世の中を吟味し、貧しさと幸福の関係をもう一度考え直すことこそ、実は雇用問題を考える上でまずすべきことなのではないだと、私は考えている。そしてこれは、社会への境界領域に存在している学生の役割でもあるのだ。

[10] 城繁幸著『7割は課長にさえなれません』PHP新書、2010年

書名:7割は課長にさえなれません
著者:城繁幸
出版社:PHP研究所
出版年:2010年

[11] 斎藤美奈子著『誤読日記』文春文庫、2009年、p. 173、森永卓郎著『年収300万時代を生き抜く経済学』についてのエッセイで。

書名:誤読日記
著者:斎藤美奈子
出版社:朝日新聞社
出版年:2005年

[12] 塩野七生著『ルネサンスとは何であったのか』新潮社、2008年

書名:ルネサンスとは何であったのか (新潮文庫)
著者:塩野七生
出版社:新潮社
出版年:2008年

(文責:積田俊雄)