書名:信と知――たんなる理性の限界における「宗教」の二源泉
著者:ジャック・デリダ
訳者: 湯浅博雄・大西雅一郎
出版社:未来社
出版年:2016

本書は、地中海に浮かぶカプリ島で行われた討議のジャック・デリダの報告をまとめたものだ。テーマは「宗教」。原書の刊行は1995年だが、その内容は、2001年 9・11以降の世界の変貌を先取りするかのように、”今日の宗教”についての切実な問題意識に貫かれている。

まず、本書は、副題にもあるように、カントの宗教論『たんなる理性の限界内における宗教』(1793)の線上で書かれている。18世紀、カントは哲学を神学から自立させて、独自の領域を確保した。それによって、「何が正しい行為であるのか」という道徳の問いを、神ではなく、人間の理性を起点にして考えられるようになった。つまり、「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」という、いと峻厳なる”定言命法”である。

しかし、デリダは、いっけん世俗的にみえるカント哲学が、じつはキリスト教と強く結びついたものではないかと主張する。どういうことか? カントの道徳哲学の肝は、人間の外面的な行為と内面的動機を区別することにある。普段、私たちの行いは様々な法律によって制約されているが、それは外面的な行為の規制に過ぎない。

カントにとって真に道徳的なのは、殺害、強盗、嘘の禁止といった、誰もが同意せざるをえない道徳法則に、心の底から従う場合だけなのだ。いいかえれば、「これをすれば善い人と思われるから」とか「自分にとって得になるから」という動機は、いかに結果が良くても、”道徳的”な行為に値しないということだ。

ところで、こうした論理は、キリスト教の信仰に似ている。神に救われたいがゆえになす信仰は、つまるところ、神を人間の都合に従属させる思い上がりである。かくして、真の信仰とは、”あたかも神が存在しないかのように振る舞う”ことだ。この「神のことを意識しつつ、神のことを考えない」という奇妙に矛盾した態度は、「神の死(=キリストの死)」という概念に表されているという。デリダは言う、定言命法は福音書的である、と。

では、この議論が今日の宗教問題とどう繋がるのか。20世紀後半~の宗教の復活。論争の焦点は世俗と宗教との対立だ。だが、デリダは単純な世俗主義の立場はとらない。なぜなら、科学技術、人権や民主主義、そして資本主義といったグローバルに広がる運動が、じつは特定の宗教であるキリスト教に根ざしたものだからだ。デリダは、宗教的テロリズムを、他文化に対する西洋の越権行為だという異議申し立てと捉える。

とはいえ、やはり、自由や人権、民主主義といった価値は手放せないだろう。ならばどうするか。デリダは、こうした近代の諸価値を、西洋の聖書的伝統という文脈から解放して、より抽象的に理解する必要性を訴える。

そこで彼がもちだすのが「砂漠」という比喩である。どこまでも果てしなく広がる砂漠は、見知らぬ者同士の邂逅の場でもある。そこでは、いかなる共通の価値や文化も当てにできない、ひょっとすると言葉すら通じないかもしれない。
だが、もしお互いが共存を望むならば、手探りにでも対話していく他はないだろう。デリダはそこに宗教の発生をみる。

キケロ~バンヴェニストによれば、宗教(religion)の古い原意は、”ためらい、逡巡、慎み、抑制”であるという。他者との関係において、それは”敬意、尊敬”としてあらわれる。いわば、根拠なきゼロ地点から、パフォーマティブに共通の根拠を作り出していくことへの希望。かくして、彼は「宗教(religion)」がもつ合理性の核を救い出そうとする。


追伸 この本は、内容が、”イタリック”、”追記”という2つの部門からなっている。邦訳には反映されていないが、”イタリック”は全文が斜字体(!)で書かれている。デリダなりの”慎み深さ”だろうか。

(評者:大窪善人)

更新:2018/06/14