書名:脱ぎ去りの思考:バタイユにおける思考のエロティシズム
著者:横田祐美子
出版社:人文書院
出版年:2020


 本書は、二十世紀の思想家ジョルジュ・バタイユのテキストの綿密な読解を通して、バタイユを単なる「セクシーなガジェット」として、あるいは反知性主義の作家としてではなく、知を愛し追い求める「哲学者」として哲学の流れに位置づけようとする研究書である。
 バタイユは、従来フランス文学の分野で研究されており、哲学という分野の中で話題になることがあっても、哲学者としてではなくあくまでも独特の思想を持った作家として扱われてきたように思われる。それゆえ、大学院の哲学科でバタイユを哲学として解釈したこの研究は、カント、ヘーゲル、ハイデガーといったメジャーな哲学者についての研究に比べるとかなり異質のものと言えるだろう。また、バタイユを哲学として扱うという本書の試みは、伝統的にバタイユを研究してきた文学の方面からも胡散臭い目で見られかねない。実際、本書の序論では、文学畑における多くのバタイユ研究が、バタイユ思想を「悪魔的」なものとして描写し、彼の思想をアカデミックに読解すること、あるいは彼を哲学者として扱うことを拒否する傾向にあったと紹介されている。


 このような本を紹介しようとしているものの、私はあまりバタイユが得意ではない。しかし私でなくとも、大方の読者はバタイユ自身のテキストを読めばその不穏でしばしばエロティックな雰囲気に当惑し、そっと本を閉じてしまうか、逆にその雰囲気に心酔していくかのどちらかだと思われる。
 例えば、文中に引用されているバタイユの記述「〈私は太陽である〉と書いた途端、私は完全な勃起に見舞われる。なぜなら、「である」という動詞は愛の熱狂を運ぶ手段なのだから」という文言は、本書の筆者による適切な解説がなかったならば、すごくエロいことを言っているのか、妄言なのかのどちらかとして理解されるだろう。
 本書による先行研究の紹介を読む限りで言えば、バタイユについてのこれまでの研究が、心酔できない読者にとってバタイユ思想からの遠心力を働かせるようなものであったのではないかと考えたくもなる。その点で本書は、心酔しバタイユの言語的所作をただ反復するのでもなければ、外から言葉をなぞって、他の思想家とともに陳列する訳でもなく、バタイユのテキストを、バタイユ思想の内部から読み解き、論理的に解釈を加えていく研究である。そういう意味で本書は、バタイユについて積み重なっている一般の偏見を揺り動かし、バタイユの魅力を新たな形で新たな読者へと示す働きをしてくれるのではないだろうか。

内容紹介


 本書の主眼は「非-知l’inconnu」というバタイユの概念を明らかにすることにあると言える。筆者はバタイユの様々なテキストにおける記述に即して、「非-知」という言葉で彼が何を想定していたかを明らかにしていくのだが、その議論によれば、バタイユの「非-知」とは、しばしばそう見なされてきたように神秘主義的な知のことでもなければ、文字面から想起されるような「知との断絶」でもない。むしろ「非-知」とは、我々が通常の知的活動において行っているような、何かあるものを「…として」という枠組み・概念に嵌めて捉えるという概念知の運動に対し、その概念知から常に逃れさるものを、どこまでも追いかける知の運動である、ということであった。
 とはいえ、人の思考は、何かいわく言い難いものに接触した、と感じた次の瞬間には、概念によってそれを名付けてしまう。これを本書の用語で言い表せば、「非-知」が絶えず概念を纏い、概念によってその対象を捉える概念知になってしまう、ということになるだろう。だが、「非-知」の運動は、身に纏った概念を絶えず脱ぎさることで、概念の枠組みをはみ出したいわく言いがたいものに漸近しようとする。あくまでも概念知を脱しようとするこのような「非-知」の運動のことを、著者は「脱ぎ去りの思考」と呼んでいるのである。
 この「脱ぎ去りの思考」は、完全であるがゆえにもはや知を追い求めないヘーゲルの絶対知に対比されている。バタイユの「非-知」は、完成されたとされる絶対知を問いに付し、その閉鎖性を開く。その意味において、「非-知」は「知を愛する」という哲学の本来の定義に合致すると筆者は主張する。このような「知を愛し求める」こととしての「非-知」の運動は、バタイユにおいてエロスと結びつけられている。この論点を明らかにすべく、筆者は第4章でバタイユの文学作品『マダム・エドワルダ』と理論的著作『内的体験』を照らし合わせながら議論を展開してみせるのだが、この箇所はとりわけ面白い。そして本論の最終章である第5章で筆者は、カントとマルクス・ガブリエルらの哲学観に接続することで、バタイユを哲学する者として哲学の流れに位置づけている。
 ところで、筆者も明言しているように、本書の副主題として「女性」がある。このテーマが前景化するのは、第5章において筆者がジャン=リュック・ナンシーによるバタイユ解釈を批判する箇所だろう。筆者によると、ナンシーは「非-知」を欲望という語でとらえ直した上で、それを欲動、衝迫、隆起といったフロイト的な術語によって言い換えているのだが、そのことでナンシーは、バタイユが「私は娼婦がドレスを脱ぐように思考する」といった具合に女性性と関連させていた「非-知」を、暗に男性的性欲と結びつけてしまっている(よく批判されるように、フロイトの性理論は男性のセクシュアリティを基礎に構築されているため男性中心的なものであると言える)。筆者がここまで述べている訳ではないのだが、筆者によるナンシー批判を私流にもう一歩推し進めると、バタイユが女性に結びつけていた「哲学すること」としての「非-知」を、男性的性欲に結びつけるということは、取りも直さず、女性である真理を口説き落とそうと男性哲学者たちが押しかけるという哲学のニーチェ的イメージを想起させ、哲学は男性の学問である、という古い偏見を反復していることになる、という批判として読むことができるかもしれない。
 本書の締めくくりとして筆者は、力強くバタイユの「哲学的転回」を唱える。ただしこのときの「哲学」とは、他の学問分野と区別された一分野としての哲学ではなく、むしろ、概念知や絶対知の限界を超えてさらに知を追い求めるという「哲学すること」の運動のことであるとされる。それゆえ、筆者は「哲学的転回」という言葉によって、バタイユ思想の文学的、文化人類学的、経済学的なテーマを排除する訳ではなく、むしろそれらすべてを「哲学すること」という一つの運動の痕跡として捉えるという立場を提唱していることになるだろう。このような挑戦的主張が、今後学界において受け入れられていくかどうか、注目したいところである。

感想


 総じて説得的な研究であったが、一点だけ、バタイユについては素人である私が本書を読んで抱いた疑問は、「非-知」を本能や肉体的な欲望と結びつける先行研究への反動として、筆者が過度に「非-知」をそれらから切り離してしまっているのではないか、ということである。本能と知性、肉体と思考のようなコントラストがきつすぎるのではないか、バタイユ思想においてその間には何らかの交流はありえないのだろうか。機会があれば尋ねてみたいものである。

(評者:酒井麻依子)

更新:2020/08/11